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大阪高等裁判所 昭和30年(う)1604号 判決

控訴人 大阪地方検察庁検事正代理検事 福田隆恒

被告人 羅奉録 弁護人 富永竹夫 外一名

検察官 志賀親雄

主文

本件各控訴を棄却する。

理由

本件各控訴の趣意は、本判決書末尾添付の、大阪地方検察庁検事正代理検事藤田太郎作成及び被告人並びに弁護人富永竹夫、同加藤充各作成の控訴趣意書記載のとおりである。

弁護人等の控訴趣意第一点について、

所論は、原判示第四の拳銃所持について、起訴状には、「被告人は、法定の除外事由がないのに、昭和二十六年三月四日頃より七月十四日頃までの間、布施市稲田千五百四十六番地林斗鼎方階下奥六畳の間押入内及び北海道網走市新町一番地星山栄吉こと裴乗鎬方石炭置場等において、前記第一ないし第三の犯行に使用したブローニング自動装填拳銃(番号四五八二九一号)一挺を隠匿所持していた」と記載して所持の始期から終期並びにその間における隠匿場所をも具体的に指示しているのに対して、原判決は「……右各犯行当時から昭和二十六年七月十四日網走市新町一番地裴乗鎬方石炭置場で隠匿を発見せられるまで、拳銃一挺を所持していた」と記載しただけで、三月四日から犯行当時までの所持並びに林斗鼎方における所持を否定したのかどうか、各犯行毎に別箇の所持の事実が成立するというのか、各犯行ごとに従来の所持の具体性が変更せられるという趣旨なのか、全く不明であるのみならず、いかにして所持していたのかを記載していないから、原判決は公訴事実中のいかなる部分を引用して判断を加えたのか不明瞭であつて、刑事訴訟規則(控訴趣意書に刑事訴訟法と記載しているのは誤記と認める)第二百十八條に違反する、というのである。

しかし、原判決は起訴状に記載された公訴事実を引用しているのではないから、刑事訴訟規則第二百十八条の関係するところではない。そして、原判決にいわゆる右各犯行は、昭和二十六年三月七日、同月十七日、同月二十七日の三回であるから「右各犯行当時から」というのは、右三月七日当時からという趣旨であると解せられる。ただ、起訴状に記載してある三月四日頃から、同月七日に至る所持並びに林斗鼎方における所持についての判示を欠くことは所論のとおりであるが、判文からみて右の期間における所持は認定しない趣旨であると解せられ、また、右の不法所持罪は一個の継続犯であるから、所持の場所を移動した場合に、そのうちのある部分が不分明であるときは、他の判明している場所を記載して犯罪場所の表示とすることは別に違法ではない。そして、一罪中の一部分について、起訴状と認定を異にする場合に、それを判文に明示しなくても、審判の請求を受けた事件について判決をしなかつたことにならないのみならず、その理由を説明する必要のないことも、多言を要しないところであるから、原判決が叙上の点を判文に明示しなかつたのは違法ではない。論旨は理由がない。

弁護人の控訴趣意第二点及び被告人の控訴趣意について、

所論は要するに、被告人は、昭和二十六年十月二十三日北海道や青森方面を旅行して自宅に帰つたところを、布施市警察職員に逮捕せられ、十三日間拷問を加えられ、虚偽の自白をさせられ、犯罪人に仕立て上げられたのであつて、本件は事実無根である。原判決は、証拠なくして、又は証拠能力のない、若しくは証明力のない証拠によつて事実を誤認し、又は審理不尽によつて事実を誤認した違法の裁判である。すなわち、(一)原判決は「争点についての判断」と題する項目において、判示第一ないし第三の各犯行場所に遺留せられた弾丸及び薬莢が、証第十二号の拳銃によつて発射せられたものであることは、早崎淳作成の鑑定書、島岡太郎の鑑識結果復命書、大村得三の鑑定書並びに証言によつて明白である、と認めたが、ブローニング拳銃のような大量生産の拳銃においては、銃身内の螺旋条が同一のものがないとはいえないから、本件の拳銃と種類、構造の同一な拳銃のなかに、本件の遺留弾丸と全く同一の発射痕特徴を現わすものがないとはいえない、弁護人は、原審において更に物理学者の鑑定を申請したが、原審はこれを却下し、大村得三の鑑定を唯一の証拠として右のような判断をしたのは、審理不尽の結果事実を誤認したものである、(二)原判決は、右の拳銃が、軍手手袋、ドライバー、弾丸等とともに、昭和二十六年七月十四日午前六時頃、北海道網走市新町一番地星山栄吉こと裴乗鎬方石炭置場において発見せられたこと、被告人が同年六月十九日頃から網走市内の各旅館に滞在し、特に被告人が菅原旅館に宿泊中の七月初頃、唯一の同宿人に金一万円の盗難事件があり、被告人がその容疑者として不拘束のまま取調を受けたこと、及び七月十三日午後四時頃からは、右裴方から道一つ隔てた酒井旅館に宿泊していたこと、被告人は右裴方にかねてから面識があり、同年六月末頃から拳銃等発見の日までに三回程立ち寄つたことがあること、被告人が同人方に出入する際はいつも裏口からで、その裏口階段下に本件石炭置場があることから、被告人を、本件各犯罪に使用された拳銃の所持者と認定している、しかし、以上の事情は偶然の一致に過ぎない、この点について原判決の挙示する証拠は、いずれも被告人の拳銃所持の事実を証明するものではないにかかわらず、原判決が「以上を全体として観察してみると、それは決して決定的なものではないにせよ、やはり被告人に不利益に働かざるを得ない証拠関係であると考える」と言つて、これを証拠として飛躍的推定をしたのは証拠がないのに犯罪事実を認定したものであつて違法である、ちなみに、被告人と拳銃との関連を直接示すものとしては、被告人の司法警察員に対する「昭和二十六年三月四日頃、李京国の紹介で朝鮮人の高山某から代金二万円で拳銃と弾丸十二、三発を買い取つた、その代金は池田敏雄からもらつた金で支払つた」旨の供述があるだけであるが、原審証人池田敏雄の証言によれば、金二万円を渡したのは三月六日付の小切手であり、原審証人柳沢柳太郎の証言によれば、被告人はそのうち金一万円を家屋の手付金として支払つているから、拳銃代金の支払は不可能であつて、拳銃の買入は架空である、(三)原判決は、被害タクシー内に遺留された証第八号の黒布と、被告人の居宅から押収された証第十五号の黒布について、鑑定の結果を援用して、同一物が分離されたものとして被告人をその所持人であると認定しているが、証第十五号の黒布が被告人方にあつた当時はもつと大きかつた、証第八号の黒布が犯人の覆面用としたものであれば、火薬爆発生成物が附着しているはずであるのにその痕跡がないから、本件の犯罪に使われたものではない。また証第十五号の黒布も、昭和二十六年十月二十三日の捜索の時押収をしないでおいて、同年十一月二日に至り、黒布と指定して捜索差押許可を受けて差押えた、その当時は防空幕のままであつたが、押収されてから半分になつている、証第八号の黒布は、自動車内の遺留品ではなく、昭和二十六年十一月二日被告人方で押収した黒布を二分しその一部を証第八号の遺留品と作為し、他の一部を証第十五号の黒布としたものである、(四)原判決は、判示第三の犯行現場に遺留されていた靴下止片方(証第七号)について、羅日信、羅日順の検察官に対する各供述調書、原審証人池田敏雄、同池田松枝の各証言、池田正夫穂の検察官に対する供述調書を綜合して、被告人が昭和二十六年二、三月頃使用していたものであると認めたが、同人等の供述は虚偽である、右証第七号の靴下止片方と、弁護人から被告人使用のものとして提出した靴下止片方とは、形状、色柄において類似しており、羅日信や羅日順が、見誤つて検察官に対し肯定的供述をしたものであつて、証第七号は被告人使用のものではない、原審の判断は人間の記憶力の限界を無視する誤断である、(五)原判決は、証第十八号の黒皮手袋を、被告人が使用していたもので、かつ右の手袋をはめたうえ、右手で弾丸を発射した疑が濃厚であると説明し、公判廷において被告人に右の手袋をはめさしたが入らなかつた理由について種々説明している、かつて黒皮手袋が被告人方にあつて被告人がこれを使用しており、それが押収せられたから、羅日信や羅日順、池田正夫穂等も、被告人が使用していた旨証言したのであるが、原審第三十六回公判廷における検証の際、被告人の手にはめてみて、五指も十分に入らぬところから、被告人の所有し使用していたものと異ることに気付いたのである、被告人の所持していた黒皮手袋は、終戦後あつらえたもので、手袋の下部に兎の毛のついたものである、現物が警察に押収されたのち、何らかの事情で他の手袋と代えられたものである、(六)原判決は、第三の犯行の数十分前、国鉄阪和線天王寺駅前において被害者川原傭价の運転する自動三輪タクシーに乗り、生野区勝山通四丁目附近の国鉄城東線ガード下附近において警察官の職務質問を受けた者が判示第三の犯人であると認め、同僚運転手並川康雄、古木重夫及び警察官広畑源吾、清水静等の、当夜の客が被告人によく似ている旨の証言や、職務質問の際の問答等によつて、右第三事実と被告人との関連性を認める資料としている、そして、その事実のため、捜査官は被告人を本件犯罪の真犯人と思いこみ、その予断のもとに不当な取調と物的証拠の作為をしたものであつて、ありのままに観察するときは、前記事実と被告人とを結びつけ得る重要な事実ではない、すなわち、乗客の告げた行先の高井田は被告人の住居箱田と方角及び距離において相当の違いがあり、また、名前に「田」の字を答えたことは、直ちに米田と推定する理由とはならない、苫小牧市は、新興都市として鮮人の来往ひん繁であつたのみならず、その頃、北海道一円にわたり鮮人その他の細民が米その他の食料品買出しのため往来していたから、被告人以外に、住所を苫小牧と称する朝鮮人がないとはいえない、もし当夜職務質問に答えた乗客が被告人であつたとすれば、その夜間もなく強盗殺人の大罪を犯しながら、網走市において、住所を苫小牧として米田栄福若しくは栄二郎の日本名をもつて旅館に宿泊し、鉱山の売却に奔走するのみならず、自宅に文通送金し、または米やリンゴを送付して来た事実に対する被告人の心理を理解し得ないことになるであろう、また、原判決は、被告人の容貌に関する多くの証人の証言いわゆる面割の結果をもつて、被告人に不利益な証拠の一つとして援用している、しかし、面割に先だち、多くの関係者を階上窓際に並列させ、被告人を庭前に連れ出して、レインコートを着せ、汚い中折帽子をかぶらせ、白いガーゼのマスクをかけさせてから階上に振り向かせ、関係者をして被告人の面貌を注視させたのであるから、関係者は被告人が犯人であるとの先入観を生じ、むしろ間違えてはならぬとの心理から、顔が似ているとの供述となり、証人宮本検事の証言にある写真にある摘出となつたのである、原判決がたとえ、判示第三の犯罪の犯人と被告人との同一性を判定するに当つて「断定的ではない」と多くの疑問を残しているとはいえ、これらの証拠関係を被告人の不利益な証拠関係の一つとして援用したのは、証明力のない証拠を証明力ありとして事実を誤認したものである、(七)原判決は、黒背広と黒短靴について、広畑ほか三名の証人が、当夜の客は黒背広であつた旨証言し(古木証人のみは黒く見える濃紺の背広と証言)、広畑及び清水が黒短靴であつた旨証言していること、被告人方から黒背広、黒短靴が押収されていないことを認めながら、犯行当時から捜索までの間に所持品の移動があり得る、また質商見市菊松方へ被告人方から米田栄助名義で黒の冬服上衣や紺の上衣が入質して受け出されているから、被告人が黒背広服や黒短靴を持つていたことがない旨の供述は措信し難いと説明しているが、これは一片の憶測に過ぎないし、また、被告人は米田栄助名義で入質したことはないから人違である、(八)原判決は被告人のアリバイについて、証人林斗鼎が、第十四回公判廷において「自動車強盗のあつた晩、私は仕事が忙しくて午後十二時頃まで夜業をしたが、午後十二時少し前頃、階下の便所へ降りて行つたところ、被告人は六畳の間の押入の方で子供二人と一緒に寝ていた」と証言し、これに対して、羅日信、羅日順の第八回公判期日における証言等の裏付証拠があるにかかわらず、証人宮本検事の、林斗鼎の供述調書に記載してない事がらについて林が供述した旨の証言を採用して、林の証言を排斥している、しかし供述調書に録取された以外の供述があつた旨の主張は許さるべきものでなく、従つてその証言は証拠力がないものであるからこれを採用した原判決は違法である、というのである。

よつて案ずるに、被告人は、昭和二十六年六月中旬、布施市稲田千五百四十六番地の当時の自宅を出発して北海道、青森方面を旅行し、同年十月二十三日、被告人不在中の移転先である大阪府中河内郡盾津町三島百四十四番地金田栄一方に帰つたところを、布施市警察署員に逮捕せられ、当初は犯行を否認していたが、同年十一月六日に至り、拳銃入手の事実を、次いで犯行を自白し、犯行後拳銃を網走市に持参して隠匿した顛末をも自供したが、検察官に対しては、その一部を自供した程度で黙秘するに至つた。原裁判所は、右自白の任意性について疑を挿しはさむ余地があると認め、自白を援用せず、もつぱら情況証拠を検討綜合して全部有罪の認定をし、特に「争点についての判断」と題する項目を設け、詳細綿密な説明を加えた。当裁判所は、原判決の右の趣旨を尊重し、自白にとらわれることなく、更に検証や証人尋問をして、原審の事実認定の当否を考究したのである。

すなわち、原判決の拳示する証拠及び、当審証人広畑源吾(生野警察署員)、同清水静(同上)、同並川康雄(自動車運転手)・同古木重夫(同上)、同見市菊松(質商)、同見市義雄(同上一、二回)、同見市キヌエ(同上)、同宮本利寿(検事)、同星山栄吉こと裴乗鎬(網走市新町一番地、古物商)、同星山テル子こと金相任(同上)、同菅原あき子(同市南三条西三丁目三番地、旅館業)、同酒井吉助(同市新町一番地の一、旅館業)、同島茂治(同市新町七番地、旅館業)、鈴木留吉(網走警察署巡査部長)、同嘉野豊七(網走警察署巡査)の各供述、当審における検証(前記酒井旅館内、網走駅前交番附近、前記裴乗鎬方、前記菅原旅館内、網走市立図書館蔵昭和二十六年七月十五日附北海道新聞)の結果及び当審鑑定人国井修二郎作成の鑑定書の記載を検討するに、本件が被告人の犯行であるという主要事実を直接に証明する証拠はない。しかし、主要事実を間接に推認させる間接証拠すなわちいわゆる情況証拠は多数存在し、これらの証拠を綜合すると、優に公訴事実を認定するに足りるのである。当裁判所は、所論に鑑がみ、反対の証拠も取り調べたが、右の認定を覆すに足りるものはない。本件において最も重要なのは、(一)原判示第一の現場において発見された薬莢一個(証第一号)、発射弾一個(証第二号)、同第二の現場において発見された薬莢一個(証第三号)、隣家西川正治郎方において発見された発射弾一個(証第四号)、同第三の被害者川原傭价の頭部から摘出された銃弾一個(証第六号)、第三の現場附近の中川良太郎方で発見された発射弾一個(証第九号)、同現場附近で発見された薬莢五個(証第一〇号)が、昭和二十六年七月十四日午前六時半頃網走市新町一番地星山栄吉こと裴乗鎬方で発見されたブローニング拳銃(証第一二号)から発射されたものであるかどうか、(二)然りとすれば、右の拳銃は被告人の所持していたものかどうか、すなわち、拳銃と被告人との結びつきの二点である。前記の証拠によれば、本件発覚の端緒は、原判示第二、第三の現場及び死体から発見された発射弾及び打穀薬莢が、同一の拳銃から発射されたものであつて、同一犯人の行為と推測せられるのと、自動三輪タクシー運転手並木康雄同古木重夫及び大阪市生野区勝山通四丁目国鉄城東線ガード下で被害者川原の運転する自動三輪タクシーを停めて職務質問をした生野警察署巡査広畑源吾、同清水静の供述により、犯人は北海道苫小牧市に縁故があり、現場附近に居住する朝鮮人と推定し、被告人が第三現場から百数十メートルの距離に居住し、妻と離婚し、子供二人と姪の米田フミ子こと羅日信、同羅日順と同居し、北海道方面と往来するとの聞込みから、捜査線上に浮んだが、その一方、被告人は、昭和二十六年六月十九日頃、網走市に来て、同年七月八日まで同市菅原旅館に宿泊し、同月九日から同月十二日まで同市網走駅前向陽館に宿泊し、同月十三日午後前記裴乗鎬方を訪問し、同人の妻金相任と雑談したのち、同家の筋向いに当る酒井旅館に投宿していたところ、右の菅原旅館において被告人の宿泊中盗難事件があり、更に、同月十日頃、菅原あき子の母の金員が盗まれたことから、駅前の交番に届出があり、被告人が嫌疑を受けて右十三日の夜交番の巡査に同行を求められ、取調を受けたけれども、結論に至らず帰宿したが、翌十四日午前六時半頃、裴の妻金相任が、床下の石炭置場から拳銃一丁、実包六発、軍手一足、ドライバー一個をゴム布に包んだものを発見、網走市警察署に届出たので、再度被告人に拳銃所持の嫌疑がかかり、同日同署に呼び出され、足取り等について取り調べを受けたが、決め手がないため釈放せられ、拳銃及び実包は国家地方警察本部に移送せられ、その後国家地方警察本部科学捜査研究所において、右の拳銃で添附実包を試射した結果、その銃弾と薬莢とが、原判示第一ないし第三の事件について発見された銃弾及び薬莢と同一の特徴を有し、右の拳銃がこれらの犯罪に関連を持つことが発見せられ、同年九月八日附国警大阪府本部警察隊長あての通報により、捜査官は、右第一ないし第三の強盗、同未遂、強盗殺人の犯人を被告人と判断して指名手配をするとともに、北海道において裏付捜査をしながら、被告人の帰宅を待ち、同年十月二十三日被告人を逮捕したものであることを認め得られる。以下所論について判断すると、

(一)  原判決が証拠に援用している早崎淳作成の鑑定書(記録第一九七丁以下)、島岡太郎の鑑識結果復命書(一八一丁以下)、鑑定人大村得三作成の鑑定書(一五三三丁以下)並びに証明(一、五四六丁以下)及び当審鑑定人国井修二郎の鑑定書によれば、原判示第一ないし第三の各犯行場所において遺留せられた銃弾及び薬莢が、網走市において発見せられた拳銃によつて発射せられたものであることは明白である。大村得三の鑑定書には、原判決の援用するように「銃身を構成する素材に対する工具及び刃部の作用が顕微鏡的に同一でないから、各銃身の腔線(線状)はそれぞれ特徴があり、従つて、この銃身から発射された弾丸の表面に印せられた線状痕は各銃特有である、同一種類の、同一口径の拳銃で、同一の会社で、番号を追うて製作された場合でも、各銃から発射された弾丸は区別することができる、薬莢にも、弾丸と同様に銃器固有の痕跡、傷痕を生ずる、弾丸、薬莢ともに、その傷痕によつて異同を決定できる」と記載してあり、前記国井修二郎の鑑定書にも「物理学上の原則より考察して、弾丸や薬莢に現われた発射痕は、個々に特徴を有し、他の銃身から発射されたものとは区別され得ると断定する」旨記載してある。右各鑑定の結果に徴し、同一種類の拳銃のなかには本件の遺留弾丸等と同一の発射痕特徴を現わすものがあり得るとの弁護人の主張は採用しがたい。

(二)  被告人と前記拳銃とのつながりについては、当裁判所も審理の重点を置いたが、結局、原判決のいうように決定的な直接証拠はないけれども、この点について原判決の援用する証拠及び当審において取り調べた証拠は、いずれも主要事実を推認させるべき間接事実を証明するものであつて、これを綜合判断すると、被告人が右拳銃の所持者であつたことを推認し得る資料となる。これを更に後記の諸証拠と併せ考えるときは、本件の犯人が被告人であることを認定し得るのである。原判決が右の間接事実をもつて主要事実たる本件公訴事実を認定する資料としたのは相当であつて、所論のような違法の飛躍的推定ではない。記録を調査すると、被告人は、司法警察員に対する第五回供述調書において、「転売の目的で、李京国の紹介により朝鮮人高山某から、拳銃及び実包十二、三発を代金二万円で買い取り、家屋の権利金を払うために池田敏雄からもらつた金二万円で支払をしたが、拳銃の買手が来ないため、布施市高井田郵便局へ強盗に入り、六月中旬北海道へ行くとき、ドライバー、白の軍手とともにゴム布に包み、これを赤革製の鞄に入れて持参し、網走市に行つて菅原旅館に宿泊し、臨検を警戒して、拳銃の包を階下奥便所の隣の一畳敷くらいの物置の床の隙間から床下に隠し、七月八日出発し、翌九日向陽館に宿泊し、拳銃包を押入の中に隠しておき、七月十二日出発、十三日午後二時頃、かねてから知合の星山方へ行き、いつも入る右横手の入口の階段の左側に、縦二尺、横三尺くらいの床下の入口があつたので、拳銃を隠すのに屈強の場所と思い、鞄に入れていた拳銃を床下に投げこみ、二階に上つて星山の家内と世間話をして、四時頃筋向いの酒井旅館に泊り、その夜九時頃から十二時頃まで駅前交番で取調を受け、更に翌十四日網走市警の取調を受け、午後一時頃本署を出たが、拳銃が気になるので、星山方へ行き、床下を覗いてみると、前日隠した拳銃がないのでしまつたと思つた」旨供述したが、その後右の自供を否定するに至つたので、布施市警察署は、網走市警察署に右自供の裏付捜査を嘱託している。被告人は、右菅原旅館の物置について、これは自分が内地から送つて来た商品を格納し又は、北海道で買い入れた魚干物を荷造りするために使用していたもので、たまたま記憶にあつたから警察官に迎合するため架空の自白をしたものであり、裴方横手出入口と道路との間には目かくしになるような板塀はなかつたから、道路の斜側から一目で見えるところで、かような所へ拳銃を隠すはずはなく、これも架空の自白であり、また、その夜は酒井旅館から交番へ連行せられ、十二時頃巡査に見送られて同旅館へ帰り、旅館主が門を閉め、翌朝は本署から呼びに来て、十一時頃出頭したのであるから、拳銃を隠匿する時間的余裕がない、と主張するが、当裁判所の証拠調の結果によると、菅原旅館の階下便所の奥の物置は、客人の使用しないところで便所掃除の道具を置いてあるだけで、被告人も同所を荷造等に使用した事実はないこと、同物置の床には被告人の前記自供に符合するような物品隠匿の空間があること、裴方横手入口は板塀によつて道路から遮断せられていて見透し困難であること、十三日に裴方へ来た旅行者は被告人だけであること、網走駅前交番勤務巡査嘉野豊七、同梅橋治光の両名は、菅原旅館からの盗難届出により、被告人に窃盗の嫌疑を抱き、酒井旅館から同行し交番で取調をしたが、被告人が赤革製鞄を持参したので、内部を開かせようとしたところ、被告人はこれを峻拒し、たばこを買いに行くと称して右の鞄を持つて交番を出て、たばこ販売店の前を素通りして酒井旅館の方向に歩いて行き、三十分以上経つてから引返えして来たので、窃盗犯人ではないと思い帰らせたことを認め得られる、そうすると、被告人は菅原旅館の物置に拳銃を隠しておくことも、十三日の昼間裴方石炭置場に隠すことも、また、あるいはその夜巡査の取調に会い、所持品搜見を警戒して裴方へ隠しに行くことも、それぞれ可能であつて、被告人の弁解は立ちがたく、却つて被告人と拳銃との結びつきを推認させる資料となるのである。拳銃買入資金の点についても、被告人が池田敏雄から借家の権利金として金二万円を借用し、そのうち一万円を柳沢柳太郎に渡したことは事実であるが、その後間もなく解約して返戻金七千円を受け取つており、また、金員授受の日時についてもくいちがいはあるが、いまだもつて前記の認定を覆すには足りないのである。所論は採用できない。

(三)  原判示第三の犯行現場タクシー内に遺留せられた証第八号の黒布と被告人の居宅から押収された証第十五号の黒布について、両黒布が、その品種、組織、使用糸、密度、染色において同一品質のものであり、両黒布の縁にそれぞれ存在するミシンの縫目には同一構造品質のミシン糸が使用されており、両黒布は、その各一辺に存在するミシンの針目の跡と践り糸の態様から、もと一枚に縫い合わされていたものが剥離されて二枚となつたものであると認められること、原判決の説明するとおりであり、証第八号の黒布が捜査官によつて、現場遺留品として作為されたものであるとの所論は、記録上これを認めるべき根拠がない。

(四)  原判示第三の犯行現場に遺留されていた靴下止片方(証第七号)が被告人使用のものであることも、原判決の説明するとおりであつて、この点に関する原審証人羅日信、同羅日順の法廷証言は措信しがたい。

(五)  証第十八号の黒皮手袋が、被告人の居宅から押収されたものであつて、被告人が使用していたものであることも、原判決の説明するとおりである。そして、原判決が右の手袋について、亜硝酸並びにその塩類の検出試験の結果、右手袋表面のうち、手の甲部は強陽性、掌部は陽性、右手袋裏面は微弱陽性であり、右手袋表面のうち、手の甲部は陽性、掌部は陽性、左手袋裏面は陰性であることから、右手甲部に特に火薬爆発生成物の附着が顕著であると解し、被告人が右の手袋をはめたうえ、右手で弾丸を発射したことを認定する一資料としたのは、違法ではない。被告人は、自分の使用していた黒皮手袋にはその下部に兎毛がついていた旨主張するけれども、原審鑑定人瀬川幸信に対する尋問調書(第一四七九丁以下)には、「証第十八号の黒皮手袋の袖口だけが手縫になつているのは、工業用手袋についている袖のようなものを取つてのけたものと思われる」旨の記載があるから、兎毛の点は手袋の同一性を否定する理由とはなしがたい。その他所論のように、被告人使用の手袋が押収後において他の手袋とすり替えられたと認めるべき根拠は、記録上存しないのである。ただ問題は、原裁判所においても、また当裁判所においても、被告人に右の手袋をはめさせて検証したところ、いずれも掌部がつかえて入りにくかつたことである。しかし、右の手袋が蒸溜水をひたした脱脂綿によつて内外をふきとられていること、その後二年数ケ月の年月を経てから原審の検証がなされたこと、その他原判決の説明するような事由によつて収縮することも考え得られるから、右検証の結果は直ちに前記の認定を覆すには足りない。

(六)  原判示第三の犯行から数十分前である昭和二十六年三月二十八日午前一時過頃、国鉄阪和線天王寺駅前において「布施の高井田まで」と言つて、被害者川原傭价の運転する自動三輪タクシーに乗つた客が、生野区勝山通四丁目附近の国鉄城東線ガード下附近において、生野警察署勤務巡査広畑源吾、同清水静の両名により職務質問をせられたこと、証第五号の運転報告書によつて認められる走行距離と料金額、米谷俊一作成の実況見分調書の記載並びに添附の写真(特に自動車内のメーターに示された「三五〇円」の料金額)、近隣者である中川良太郎、川楠光枝、山内みつえの捜査官に対する各供述調書中当夜の物音に関する供述記載を綜合し、その地理的、時間的関係からみて、当夜の乗客が原判示第三の犯人であると認めるべきである。そして、右川原傭价の同僚運転手で右の乗客を目撃している並川康雄、同古木重夫及び前記広畑源吾、清水静は、いずれも右の乗客が被告人に似ていると証言し、また広畑源吾は、右の乗客は職務質問に対し、本籍については北海道苫小牧市と答え、名前については「田」の字のついた名を答えた旨述べているが、被告人は、昭和二十四年六月頃から約半年間苫小牧市本町一番地に居住したことがあり、被告人が北海道十勝国広尾郡大樹村に所有する砂金鉱区の鉱山登記簿には、苫小牧市本町一番地米田栄福の名義で登記しており、被告人が昭和二十六年七月頃網走市で宿泊するにあたり、旅館の宿帳に「苫小牧市本町一番地鉱業米田栄二郎」と記載したことが認められる。そして検察官宮本利寿は、面割の方法として、証第二四号の写真三十枚を右広畑、清水、並川、古木に見せ、当夜の乗客を選び出させたところ、いずれも被告人の写真を選んでいる。その際、所論のように、あらかじめ、被告人をこれらの関係人に見せてから写真を選ばしたとは認められない。原判決がこれらの事実をもつて公訴事実認定の資料としたのは、何ら違法ではない。原判示第一事実について、原審証人堤幾三郎、同堤孝、同堤昭子、第二事実について、同牧野金三郎、同牧野夏子、同牧野寛司、同中野昌子の各面割状況についても同様である。

(七)  原審において、広畑、清水、並川は、当夜の客は黒背広であつた旨、古木は黒く見える濃紺の背広であつた旨各証言し、広畑及び清水は、右の乗客が黒短靴をはいていた旨証言しているが、被告人方からは、黒背広、黒短靴が押収されていないことは所論のとおりである。しかし、これも原判決の説明するように、犯行当時から捜索まで七ケ月以上経つているから、所持品の移動もあり得るし、また、見市菊松の検察官に対する供述調書の記載及び当審証人見市菊松、同見市義雄の供述によれば、同人方に米田栄助名義で、昭和二十六年二月十一日紺の上衣が入質せられ、同月二十五日受け出され、同年四月二十三日黒の冬服上衣が入質せられ、同年五月四日受け出されている。被告人は、右四月二十三日入質分について、質置主氏名欄に「米田栄助」の記載の横に「梁泰和」と記載してあるから、被告人は関係がない旨主張するけれども、これは梁泰和が受け出しに来たから見市義雄がその趣旨で記載したものであつて、右の認定を覆す事由にはならない。結局被告人が黒背広や黒短靴を持つたことがないという弁解は立たないことになる。

(八)  被告人や弁護人のアリバイの主張についても、原審証人林斗鼎や同羅日信、羅日順の法廷証言が措信し難いこと、原判決の説明するとおりである。

要するに、原判決の事実認定には審理不尽、採証法則の違反又は事実誤認等の違法はない。所論は、原裁判所の適法な証拠の取捨選択とその価値判断とを非難するに帰する。論旨はいずれも理由がない。

検察官の控訴趣意第一点について、

所論は、被告人は、昭和二十六年五月二十五日岸和田簡易裁判所において窃盗罪により懲役一年、三年間執行猶予の判決言渡を受け、同判決は同年六月八日確定しているから、原判示第一ないし第三の罪と右確定判決を経た罪とは刑法第四十五条後段の併合罪であるが、原判示第四の拳銃不法所持罪は、前記確定判決の前後にわたる継続犯であつて単純一罪であり、そして右所持の継続の終了時が犯罪終了時であるから、右確定判決後の犯罪と解すべきであり(昭和二六年三月一六日名古屋高等裁判所判決)、第四の罪については、第一ないし第三の罪に対する刑と別個の刑を言渡すべきである、然るに、原判決が第一ないし第四の罪を刑法第四十五条前段の併合罪と認定し、第三の罪について無期懲役刑を科し、同法第四十六条第二項を適用し他の罪について刑を科さなかつたのは、法令の適用を誤つている、というのである。

被告人の検察官に対する第一回供述調書及び岸和田簡易裁判所から取寄せた被告人に対する窃盗被告事件記録によれば、被告人は、所論のように、昭和二十六年五月二十五日、岸和田簡易裁判所において、窃盗罪により、懲役一年、三年間執行猶予(後に懲役九月、二年三カ月間の執行猶予に変更)の判決言渡を受け、同判決は同年六月八日確定したことが明らかである。そして、原判示第一の強盗は昭和二十六年三月七日、第二の強盗は同月十七日、第三の強盗殺人は同月二十八日の各犯行であつて、いずれも前記判決確定前のものであるが、第四の拳銃不法所持は、原判決によれば「右各犯行当時から同年七月十四日」に至る継続犯であつて、右判決確定の前後にまたがるものである。そして右銃砲刀剣類等所持取締令違反罪は単純一罪であるから、その中間に窃盗罪の確定判決が介在していても、一個の刑をもって処断するべきであるが、その継続犯を裁判確定前に犯したものとみるか、その後に犯したものとみるかについては説が分れる。元来、一人が数罪を犯した場合に、それが同時審判の可能性のあるときは、これを全体として考察し、刑の適用について妥当な考慮をする必要がある。かような関係にある数罪を併合罪とするのであるから、併合してその責任を論ずるべき場合又は論ずることのできた場合であることを要する。そのうちのある罪について確定裁判があつたときは、本来そのとき併合して審判されることができたはず、すなわち同時審判の可能性がありながら、実際には審判されなかつた罪が確定裁判を経た罪と刑法四十五条後段の併合罪となるのである。要するに、併合罪となるか否かは、同時審判が可能であつたか否かによつて定めるべきである。継続犯は、一定の法益侵害の状態が継続する間犯罪が継続するものであるが、最初構成要件に該当する行為があつたときに犯罪が完成して、可罰状態となり、その後は違法状態が継続するに過ぎないから、その後に確定判決があるときは、その罪と同時審判の可能性があつたものである。従つて、その継続犯を裁判確定前に犯した罪と解してその確定判決を経た罪と刑法第四十五条後段の併合罪とすることは違法ではない。原判決が、本件第一ないし第四の罪を、前記確定判決を経た窃盗罪と刑法第四十五条後段の併合罪として、同法第四十六条第二項により一個の無期懲役刑を言渡したのは、法令の適用を誤つたものではないから、論旨は理由がない。

検察官の控訴趣意第二点について、

本件記録及び原裁判所において取り調べた証拠を精査し、本件犯行の動機、態様を考察すると、被告人が拳銃を使用し、しかも三件とも実弾を発射し、遂に前途ある青年を射殺するに至り、しかも犯行を否認し改悛の情が認められない点において、その悪性が重かつ大であるから、死刑を主張する検察官の所論はあながち失当ではないが、強盗殺人の点について、被害者が被告人の乗り逃げを追跡し、後から組みついて格闘したため、被告人は最初威嚇のため射撃していたが、遂に射殺するに至つた事情があるので、原判決が死刑よりも無期懲役刑を選択したのは、量刑が不当に軽過ぎるとは言えない。論旨は理由がない。

よつて、刑事訴訟法第三百九十六条第百八十一条第一項但し書により、本件各控訴を棄却することとし、主文のとおり判決する。

(裁判長判事 松本圭三 判事 山崎薫 判事 辻彦一)

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